読んで頂きたい著書の紹介
「コンピュータが子供たちをダメにする」
著者:クリフォード・ストール 倉骨 彰(訳)(草思社)
自分で考えられない子供たちがなぜ増えているのでしょうか?
・コンピュータは使えるけど、自分では何もできない人たちが増えている。
・図書館から本が消え、学校から教科書が消え、使えないコンピュータだけが残るのか。
・パソコン恐怖症の大人に限って、子供たちのパソコン教育が重要だと思いこんでいる。
・インターネットで育った子供たちは、人との会話の基本を身につけることができない。
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僕らは「誰かとつながっていたい」と願いながら、現実には携帯電話のせいで、友人と静に散歩することもままならない。
オフィスでメールの邪魔されずに仕事のできる日などほとんどない。インターネット中毒のティーンエイジャーや、ほんものの動物よりペットロボットと遊んでいるときのほうが楽しい子どもたち。
テクノロジーが今ある問題をきれいさっぱり解決してくれると考えるとしたら、それはあまりにもおめでたいことだろう。
テクノロジーはその一方でたくさんの新たな問題を生みだしている。たとえば自動車は、人やモノの運搬を高速化するというふれこみで登場した。だが、実際には道路はどこも渋滞している。テレビは家庭に娯楽を、子どもに教育をというふれこみで登場した。しかし、今では,家族はちりぢりになって自分の部屋で自分のテレビを見ている。テレビの見過ぎでゾンビみたいになっている人だっている。僕らの日常を効率化してくれるはずだった。
電話は,僕らをなまけものにしてしまった。コンピュータは、僕らの表現媒体を変えてしまっただけでなく、コミュニケーション伝達の文字自体も変えてしまった。これから誕生する世代は、一七世紀の詩歌を読んで楽しむことができるのだろうか。ドラム音をシンセサイザーで合成するのが一般的になったとき、太鼓フェスティバルに出演する和太鼓奏者はいるのだろうか。
進歩と効率化と教育の大義名分のもと、僕らに売りつけられたのは、僕らを満足させることもできず、その勝ちを保つことさえできないハイテク機器だった。何の批判精神も持たずにそれに飛びつけば、僕らは主体性を失い、文化の継続性を失い、そして人間性を失う。
断っておくが、僕はテクノロジーに反対しているわけではない。そうではなくて、僕は、今こそ、僕らとコンピュータとの関係を問いなおすべきだと考えているのだ。どんなアプリケーションが僕らにとって価値があり、ためになるかを問うべきじゃないか。インターネットの革命的効用についておしゃべりするよりも、インターネットが社会にどんな影響をおよぼしているかを内省的に研究し、考察すべきではないのだろうか。
大学の優劣は、コンピュータの設置台数や情報端子の数とはまったく無関係だ。
学生は、クリップアートやマークアップ言語を使わなくても、参考URL一覧を付けなくても、すぐれたレポートを書ける。美術の授業は、創造力の育成を主眼とするべきであって、美術館所蔵の傑作をインターネットで見ることに中心を置くべきではない。図書館の使命は、蔵書と定期刊行物を充実させることにある。図書館の運営は、司書がすべきであって、情報スペシャリストやデータベース管理者がすべきものではない。教育関連の予算が削減され、図書館要員が解雇される時代に、すぐに時代遅れになるコンピュータ機器に限られた予算を注ぎこむのには暴挙だ。
僕の言っていることは、ムチャクチャに聞こえるだろうか。狂言的に聞こえるだろうか。
僕はそうは思わない。どうして僕らは、学校のコンピュータ化に巨費を投じるのが最善の策なのかどうかをほとんど議論しないのだろう。子どもは、森や美術館や工場へ実施見学に行くよりも、インターネットから多くのことを学ぶのだろうか。少なくとも、僕らは、次ぎの二つの疑問を発してみるべきだ。学校という学校にインターネットを導入することによって、どのような問題が解決されるのであろうか。電子機器相手に過ごす時間がいまより増えることによって、どのような問題が生じるのだろうか。
教育現場での問題とは別に、僕はコンピュータがもたらす副次的影響にも関心がある。講義の質を高めるねらいで開発されたソフトウェアが、講義をいっそう退屈なものにとしてるのはどうしてだろうか。商品の買い替えを促進するために計画的に次次々とモデルチェンジしていた一九五〇年代の意図的陳腐化の手法が、このハイテク時代によみがえったのはなぜたろうか。インターネットは、人間どうしを結びつけるのではなく、親しい人たちを切り離すようなことをしていないか?
僕はコンピュータを恐れてはいない。僕らの社会がテクノロジー恐怖症にかかっているとも思わない。
いやむしろ、僕らの問題の根っこは、僕らがハイテク(機械)好きなところにある。もっといい技術がそのうちすぐに現われ、今日の技術がもたらした問題を解決してくれる。僕らはずっとこんな考えを吹き込まれてきた。
注意散漫で、本を一段落とてまともに読めない子ども。頭で整理して書くことのできない子ども。
そんな彼らに、極彩色の教育用ソフトを与えて、なんの役に立つというのだろう。子どもにもっと本を読ませたい。
もしそう思うなら、どうして彼らをコンピュータ画面に向かわせるのだろう。モニタの画面で文字を読むのは、
ほんの数ページでも苦痛だというのに。子どもはテレビを見すぎている。なのに、どうしてマルチメディア・システムを
学校に導入しようとするのだろう。
こうしたハイテク機器は子どもを読書や作文から遠ざける。勉強しようとする意欲を減退させる。
ハイテク機器は、コンピュータ・ゲームみたいなもので、理解を教えるかわりに、
答えを手っ取り早く教えるようにできている。断片的な知識を提供するように作られている。
そして、生徒の知的好奇心をそいでしまう。それは、自分の頭で考え批評する能力の養成ではなく、
生徒に答えを即座に提供することがハイテク機器の目的だからだ。なんといっても自分の頭で考えるには、
創造力、集中力、そして、自分で考えようとする強い意志がなければならない。
教育用ソフトは、勉強は楽しい、と思わせるために、簡単に満足感を与えるように作られている。
だから教育用ソフトを使っている子どもは、そのソフトで条件的な学習をすることに慣れ、知的な活動に対して
受け身になる。ハイテク機器を使って、瞬時にごほうびがもらえる対話的なやりとりのダイエット漬け
になった子どもは、粘り強くやり抜く努力を嫌がる。試行錯誤を通じて正解を求めたり、集中して
忍耐強く頑張ることを嫌がる。
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